Messageメッセージ
まとめると、この世の全てを定義し、動かしている存在があるということです。人知のはるか及ばない、天地創造というより、我々を含めた世界そのものが、名も無き深淵なる存在です。
しかし我々は自由が与えられています。自由に物事を考え、自由な行動が出来ます。
その存在は、根本にあるのは正義です。私たちは、自由でありながら、悪念を断ちて、道徳、倫理に照らし合わせ、善悪を判断しなければなりません。みんなが良い方向に行くように、全ての人が取り組まなければなりません。これを、「人道を尽くすを尊ぶ」というのです。
私が故郷の田舎に帰った時、山道を歩いていると、「よく来た、よく来た」と何か神様のような存在に祝福されたように感じました。山道を黒いアゲハ蝶が5分くらい私の進む道を案内するようにゆらゆらと飛んでいて不思議だなと思ったのを覚えています。のちに神様がそれを行っていたことを教えて下さいました。
私は神様のお導きで、悟りを開くことができました。この世の真実を知るに至りました。そして大切なことを教わりました。愛と真心から離れてはなりません。人間だから間違えることもあります。間違えたら直せば良いのです。
男性と女性の違いは大変興味深い。趣味嗜好が非常に異なる。それなのに惹かれ合う。陰陽説のように、全てが対になっているという概念も、名も無き存在により定義、創造されたものだ。物理の法則を定義しているから、車はタイヤの摩擦抵抗に従って前に進む。それは当然のことだが、そうなるように名も無き存在が執り行っているのである。それを守っているからそう見えるのであって、逆に言えば車が地面にめり込もうが宙に浮こうが名も無き存在からすれば自在なのである。
その物理の法則を超越したひとつの例として武道がある。合気と呼ばれるものは、力の強い者を非力な者が投げ飛げるということを可能にする。合気道の創始者、植芝先生が鉄砲の弾をよけることができる。名も無き存在が銃の弾丸を執り行っているのだから、弾丸の軌道もきまっている。今日の考えのように、気の起こりを感じ、狙ったところを外すというより、乱射されたものの軌道を全てかわすことができる。修練を積まないとできないように定義してある。定義してあるだけで素人がそれを行っても、名も無き存在の自在である。修練の及ばない私が常軌を逸したことが出来ても何ら不思議ではないのである。